穢れとイニシエーション ─── 飯沢耕太郎(写真評論家)

 90年代の半ばに最初に作品を見せてもらったとき、これはむしろ驚くべきことだが、既に村田兼一は村田兼一だった。しっかりと自分の世界が出来上がっていたということだ。モデルをどこか懐かしい光景の中に置いてポーズをとらせ、過剰ともいえるような演出を加えて撮影する。プリントした写真には薄く、精緻な彩色が施されている。まだ写真を本格的にはじめたばかりのあの頃に、彼はもう確信を持って自分のスタイルを決めていた。

 それから10年あまりを経て、作品の完成度は上がり、モデルや小道具のあしらい方もより洗練されたものになった。それでも、基本的には彼の写真に変化はない。むしろ変わったのは周囲の目である。以前は演出の「変態」ぶりに対して、ちょっと引かれることが多かったのではないだろうか。ところが最近の彼は、特に関西でカリスマ的な人気を博するようになってきている。かなりハードな撮影であるにも関わらず、モデル志願者も引きもきらないようだ。
 なぜなのだろうか。それはおそらく、彼が作り上げてきたイメージが、モデルの女性たちにとって穢れを払うイニシエーションの役目を果たしているためだろう。彼女たちにとって撮影が“試練”であればあるほど、何か別の存在へと抜けていきたいと願う彼女たちの思いをかなえる儀式となる。村田は最近とみに教祖のような風格を漂わせはじめた。モデルたちにとっても、またわれわれ観客にとっても、彼の写真は不思議な安らぎへと導く呪術的な行為のように感じられてくる。


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